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日本拓殖大學設立一百週年記念刊物中之「台灣論五」:

旧嘉義県下殖民地 (明治三十年總督府技手小花和太郎外二氏の調查に)

明治三十二(1899)年二月 (五號):

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虎尾原野

 及位置:

本原野は旧來通の予へられたるものなかりしより,先に元雲林市員は之に麥寮原野の名を下せしも,是未全く適なりと云ふべからさるを以て,今回の踏查に方り虎尾原野と命じたり,蓋本原野は西部に於る著名平野の一にして,其域は布嶼大坵田の兩堡に亘り,其一面は全く虎尾溪に界せられ,流滓泥渣の沖積に因りて成れる所謂三稜州の一部にして,虎尾溪の流域に沿ふて延亘せるが故に,今其自然的成因に資り,且溪名に緣みて之を虎尾原野とするの妥當なるを信じてなり。

其位置は旧嘉義県管下涂庫弁務所の所轄にし,虎尾溪口を距る上流約一里半に起り,溪南に沿ふて延亘し,東方三分一は大坵田堡に,西南三分の二は布嶼西堡にせり,即東西南の三面は溪仔庄、蓮菜庄、竹圍仔庄、北溪厝庄、牛埔庄、後牛埔庄、厝公厝庄(以上大坵田堡)、山仔腳庄、瓦厝庄、王厝庄、湖洋厝庄、龍岩庄、貝圳庄、新厝仔庄、林珠庄,(以上布嶼西堡) の十九庄に抱圍せられ,北方一帶は虎尾溪を以て限らる,袤東西約四里、南北約二町より半里に至る。  

地勢

土地概平坦にして,東東南より西西北,即虎尾溪岸に向て緩斜し,溪畔は堆砂を以て稍稍高勢を作せり。

原野の東方十里許,清水濁水兩溪の合流せるより西折して海に注ぐもの是れ即虎尾溪にして,刺桐巷街の南方を過ぎ,原野の北部を彎曲緩流し,沿岸各地を涵潤す,其幅二十間內外、深さ平常一尺五寸內外に過ぎず。

夏季には西南風(按:可能是「冬季には西北風」之誤)多くして土沙を飛揚し,其強烈なるに至ては一朝にして彼の堆沙は飛散して此に堆沙を新成するが如きの荒景を呈することあるを以て,原野処処に沙土の堆積するもの散在せり,又陰曆五六月の交は多雨の季にして,夕に水なき地も朝に雨下すれば忽ち沮地となり,浸水數日に涉り,付近農圃の害を被むるものからず,且大雨數日に及べば,虎尾溪漲溢して原野に奔流すと云ふ,是由來此地の荒に委せらるる所以なるべし。全原野の形狀は周圍に在る村落の內,溪畔に接するあると,沙崙縱橫に走りて河岸に臨むものあるとに由り,地勢自三部に區せらるを以て,便宜の為め虎尾溪流の上下に從ひ之に上中下虎尾原野の名を付し,其位置並に地形の梗概を各別敘述すべし。

 

上虎尾原野:

東西三十町,南北二十町許にして,東南の二面は溪仔庄、蓮菜庄、竹圍仔庄、北溪厝庄、馬公厝庄等の園圃に界せられ,西は沙崙を控へて中虎尾原野に連り,北は虎尾溪に臨むの一區にして,西南部馬公厝庄邊は土地卑濕にして沼あり,然れども溪畔に至るに隨ひて漸次に高まり,且較乾燥にして,降雨出水の際多少の浸水を免れざるも,地味肥沃にして三者中最有望の地たり。  

中虎尾原野:

東西四十町,南北五町乃至二十町に亘り,東は沙崙及上虎尾原野に連り,西南の二面は馬公厝庄、山仔腳庄、瓦厝庄、王厝庄、湖洋厝庄、流岩庄、及庄の園圃に接し,王厝に於て沙崙を抱括し,北は虎尾溪を控ふるの一部なり,王厝は往に嘗て水害のため庄民活路を失ひ,今や殆(現に二戶あり水害以前より居住せしものなるや否不詳) し,中下兩原野を界する庄も亦同樣の悲境に淪み,庄民四散せりと云ふ,然れども兩庄の周圍は付近庄民の園埔となれるもの多し,此の如く水害の為に村にしたるもの二庄に及べるものは,以て地形の一斑を窺ふに足らん,原野の東南には上虎尾原野に連る卑濕地及沼あり,其他凹地には一朝降雨あればして數日に涉るも乾かざる箇所あり。  

下虎尾原野:

東西四十五町,南北四町乃至二十五町,東西南の三面は、洪厝、貝圳、林珠、阿芹厝等諸庄の園埔及沙崙に界せられ,北は虎尾溪に瀕し,西北方十數町を隔て街を望み,前二者に較れば土質最劣等にして,且浸水の害甚しと云ふ,の西半里許洪厝あり,是亦屢水害を被むり,終に數年前村にしたりと云,本原野は其西北即海邊に方りて沙崙多きを以て,一朝風伯の怒に會へば沙塵行人の面を撲ち通行為に杜絕し,其甚しきに至ては一夜に沙崙を飛すが如き荒涼に接するを以て夕に青青たる園圃も辰には砂中に埋沒するが如き慘狀を現することありと云ふ,是を以て察するに,中下兩原野を斷界する付近を除くに他は,直に耕地となすべきの箇所なきに似たり。  

土質:()  

地積:()  

沿革:

前述の如き,上虎尾原野は一大坵田堡にし,中下兩原野は布嶼西堡管內なるを以て,堡長及庄總理等に就き,原野の沿革を問ふに其說同じからずと雖,大要左()の如し。

上虎尾原野の荒すること茲に五十年,地味肥沃ならざるにあらざるも,四近村落の人民寡少にして,耕作の力全域に及ず,加ふるに時溪流汎濫田圃を害するの憂あり,近年有名の富豪林維源資を此の地に投じ,溪水を引て灌溉し,民を集めて大に水田を拓くの計畫ありし際,会〃二十八年征台の役ありて果さず,嗣後復た此舉を企るものなし,故に現今は全く土地ありて主なきの狀態に在り,蓋水害の憂は中下兩原野に於るよりも少く,地味の肥沃亦遙に兩原野の上に在り,唯人民寡少なるが為に五十年來荒に委せしめたり云云,是れ甚了解に苦ましむる所にして,必や他に一の理由なき能はざるも,未之が真諦を知ること能はず。

中下兩原野は其以前一旦悉く園圃となりしたるものにして,所在の人民は各自丈單を有せり,然るに光緒十七年未曾有の大洪水あり,一朝にして美園を破壞し,家屋流失,農民四散,頗慘狀を極む,爾來土地荒以て今日に至れりと云ふ。

 

 

周仔原野

及位置:

本原野も亦旧來の通を有せず,元雲林市廳員は先に貓兒干原野と假名せしか,貓兒干庄は本原野に關係を有すること薄きを以て,今回の調查に方り他に適當の地理的名を付せんと欲し,野を溪流に或は沙丘に覓むるも,或は大に過ぎ,或は小に失し,恰好のもなく,止むを得ず原野に包圍せられて,他日人民移植の際からざる關係を有すべき,孤立の一村落なる周仔庄に因みて周仔原野と名けたり。

其位置は有名なる濁水溪の岐流,西螺溪口を距る上流約一里半乃至二里の溪南に位し,虎尾原野の北方約二里に在り,旧嘉義県管下西螺弁務所所轄にして,布嶼東堡にし北は西螺溪を控へ央東西南の三面は坪仔庄、酒沽庄、蕃社庄、新庄、水尾庄、竹為內庄,及草湖庄等の園圃に界せられ,西一里に亘るのは草生野なり。  

地勢:

南部は土地低く,且卑濕にして,其面積は全原野の約七分の二を占む,此低地に二溪流及二三の沼あり,溪流の一は西螺溪より分岐せられ,西螺街付近の田園を涵養して原野の南方を流れ,西端より數百間の處に於て西螺溪に合す,幅二間乃至十間,庄民は之を小溪とせり,一は河幅三尺に過ぎざるの細流にして,低地に流下し,卑濕中に其河身を沒するものなり,小溪は西螺溪に合流するに當り,其流駛の速度を阻遏せられて渟滯を來たし,殆流勢の觀を失ひ,遂に原野の低地に溢れて溜すること,平常は深さ五寸乃至二尺なるも,一朝大雨にすれば西螺溪と水量の增減を共にし,甚しきは西螺溪より逆流して原野に奔迸し,苦心慘の余に經營せられたる園圃も忽水害の荒殘を免れず,西螺溪は平常幅五十間內外にして,深さ二三尺なるも出水の際は半里余に及ぶと云ふ。

原上には沙丘の縱橫に趨るあり,就中西北即西螺溪畔及東北隅より中央部即周仔庄に到る付近を著しとす,而して溪畔に於て此等沙崙の斷續せるものは,增水の際忽原面に崩流するなるべし,之を周仔庄民に質せしも要領を得ざりき。  

土質:()  

地積:()  

沿革:

本原野は往きに嘗て開墾を經て一の水田と成されしが,五十年前惡疫流行して,四近の住民之に斃るるもの實に四百余人,以來農事振はず加ふるに後三十年又洪水の禍あり,水田忽荒し,為に村となりしもの多く,復た人民の住するものなかりしが故に,遂に復旧の機なく以て今日に及べり。

本原野は往きに嘗て開墾を經て一の水田と成されしが,五十年前惡疫流行して,四近の住民之に斃るるもの實に四百余人,以來農事振はず加ふるに後三十年又洪水の禍あり,水田忽荒し,為に村となりしもの多く,復た人民の住するものなかりしが故に,遂に復旧の機なく以て今日に及べり。

 

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